山号を磯長(しなが)山といいます。
聖徳太子の御廟を守護するために推古天皇から土地を譲り受け、墓守の家10軒を置いたのが始まりといわれています。
またここを廟地として選定したのは聖徳太子ご自身で、磯長山の丘陵を利用して高さ7.2m径54.3mの円墳が造られています。
この選定の際には、遠国の訴えにも配慮するため、甲斐国(現在の山梨県)から献上された黒駒(馬)に乗って雲の中を走っていた折に(富士山頂から)この地をご覧になり、廟地に選定されたという”黒駒伝説”が残っています。
お寺には駐車場があるので、車での参拝がいいです。 |
円墳の内部は横穴式石室で推古30年(622年)4月11日に聖徳太子が49歳で薨去(亡くなる)され、母・妃と共に埋葬されます(三骨一廟)、このことは”日本書紀”に記述されています。 聖徳太子はご存知のように、”十七条憲法”を制定することで役人の汚職を禁止し、人は皆長所と短所を併せ持つ平凡な存在で話し合いによって”和”を保つことを決まりとしています。 「日本人の心の原点がここにある」と叡福寺は説明しています。 左の写真は上から南大門・南大門から見た二天門・金堂・金堂と多宝塔・聖徳太子御廟です。 また叡福寺の前に平安初期か鎌倉初期の作とされる石仏の阿弥陀如来坐像(本尊)と太子2歳の南無仏像が安置されている隔夜堂が、その脇の道を奥に進むと浄土宗の尼寺で聖徳太子作とされる阿弥陀仏像(本尊)が安置される西方院があります、西方院には他にも聖徳太子の乳母であった月益・日益・玉照姫の3像が安置されています。 |
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叡福寺